英語の授業で何を学んだか

(読書感想文)

 金田一大

 

少し前のことになってしまいましたが、こんな本を読みました。

金田一秀穂著・文藝春秋刊、『日本語大好き/キンダイチ先生、言葉の達人に会いに行く』という、

言葉の達人から多くを学んだ先生自ら命名したとは考えにくい題名の対談集です。

 

題名はともかく、内容はおもしろく読みやすいので、言葉に関心がある方にはおすすめです。

登場する“達人”は、詩人・脚本家・落語家・アナウンサー・塾講師・研究者など全13人。

例えば家庭料理研究家の土井善晴さんのように、言葉とは直接かかわらないと思えるような職業人が

日本語について語る内容をこれほど持っているということにも心動かされます。

 

この中で英文学者の外山滋比古さんは、戦前の外国語教育について触れています。

旧制高等学校では授業時間の三分の一が外国語にあてられていたにもかかわらず

(旧制高等学校は現在の高校とは異なり、旧帝国大学の教養課程に相当するエリート学校です)

話せるようになったのは百人に一人か二人だと言い、

“音”を軽視した、読み書き偏重の外国語教育の不備を指摘します。その原因の一つが、

近代以降の英語教育を牽引したのが当時の知識人である漢学者だったことを示唆しています。

 

つまり、日本の英語の授業の原型を作ったのは漢文の先生だった?

なるほど、思い当たる節があります。

ずいぶん昔の話ですが、私が中学高校で受けた英語の授業は、漢文の授業と似ていたのです。

思い返せば漢文の授業は、外国語の文章を力業で「日本語」として読み下そうという無茶なものでした。

ヘンテコな日本語である「漢文」をスラスラ読めるようになった優等生はいたものの、

外国語としての「漢語」をペラペラ話せるようになった生徒はいなかった(当然です)。

 

英語の授業では、英文を日本語として読み下すことはありませんでしたが(それじゃルー大柴だ)、

ヘンテコな日本語に置き換えていくプロセスは、漢文の授業とよく似ていました。

「するやいなや」とか「であるところの」とかね。今でもそう教えるのかな?

外山先生の言う「音を軽視した授業」であり、当然、英語を話せるようにはならなかった。

つまり、私が「英語」だと思って受けてきたのは、実は「漢文」や「古文」と同列の

「英文」の授業だったんだな。

 

もっとも最近の中学高校の英語教育はずいぶん様変わりしているそうですから、

ある程度は英語が話せるようになって中等教育を終える人が、今後は増えるのでしょう。

 

書きたいことは他にもありますが、まずはここまでにします。

『日本語大好き(後略)』は、言いたいことが次々と湧いてくる本でした。

 

Shoji